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平成三十一年元旦

 明けましておめでとうございます。   今年もおかげさまで毎春恒例の「修正会」を無事執り行うことが出来ました。 総代さんを中心に近隣の檀中の皆さん多数のご参加を頂き、本堂でのお経に引き続き、庫裏にて、これも恒例ですが、皆でオデン鍋を囲みながら、新たな年を迎え得た喜びを分かち合うことができました。




 住職新春の挨拶  お正月の三箇日にお節料理などを頂くとき「祝箸(いわいばし)」を使います。お箸を手で握っている部分を中心に、食べ物を運び口につける方と、反対側の口につけない方とを意識します。一方は当然私共人間が口をつけるわけですが、もう片方は、私共とともに歳神様(としがみさま)が、ここを使ってお雑煮やお節を召し上がる、ということになっています。お箸ではさんだお雑煮やお節の品は、その土地土地の大地の恵みに違いありません。ですので、その大地の恵みを、私共は歳神様と一緒に三箇日間頂戴するということになるわけです。  これは実は、仏教であっても同じことで神様という言い方こそ致しませんが、箸の一方は、どこまでも繋がる、始まりもなく終わりもない、この「ひとつ生命(いのち)」に使っていただいて口をつけて貰う。色々な言い方が可能でしょうが、従来毎度、泉龍寺では「生」という字の一番下の横棒と、「死」という字の一番上の横棒をくっ付けてしまった一字で※(画像アリ)お話しさせて頂いておりますのは、住職の二十代の頃の実体験から、それを言葉の表現としてとても大事にして来たからなのです。つまり、もう一度、祝い箸で言いますと、我々が食べる側と歳神様が食べる側で、こちらとそちらと、個々の「いのち」と「ひとつの生命」とこれらが二つを超えて同時に働いて、食事が進んでいくことになります。  ちょうど、本日、修正会(しゅしょうえ)法要中の、焼香の場面でも同じことが言えます。焼香する香炉の前に行くまでは、仏様やご先祖様などの尊いものといった、頭をさげる対象があるわけです。けれども、いざ焼香をして、しっかり両の掌を合わせ、礼拝を行っている際には、拝む対象というものは無くなってしまう。拝む対象があって、「こちらとそちらがある」世界とは、千差万別の私共にまことに親しい、この世界であって、競争論理が常に働き、刻一刻間断ない情報処理の中で営まれている日常空間です。「あなたがあって私がいる」ということは、当然にそこにソロバン勘定が働くことでもある。ところが香炉の前に進んで焼香の後、さらに頭を垂れた一瞬、「あなたも無ければ、私も無い」世界が立ち所に現出する。いやいや、世界という言い方も正確ではありません。つまり競争したくとも相手がいない、ということがいいたいのです。仏様という相手さえ無くなってしまう、と同様に、仏様も無いのだけれど自分も無いという点が肝要な所です。要は言葉が用をなさないということですから、これ以上、あれこれ口で言っても仕方のないことで、ただただ、お一人お一人に正面香炉の前までお進み頂き、仏様に飛び込んで頂くことになるわけです合掌の上、頭を垂れた瞬間が「頂きました、ごちそうさまです」という時なのです。そして終われば、再び「始めがあって、終わりがある」世界に戻って、全世界を自らの全身心で担うということになります。口先でいくら「そちらも無ければ、こちらもない」「悟りも無ければ、迷いもない」「あなたも無ければ私も無い」などと唱えたところで詮ないことです。実地にお参りをしてみて、焼香礼拝を勤めることや、実際に、祝箸を用いてお雑煮を頂くことが全てです。  是非、お正月の三箇日には、お箸の口をつける反対側にも意識を持っていって初春の食事もして頂いて、改めて十全なる英気を養い、充実の亥歳にして頂きますよう、ご活躍を切に念じ上げます。  平成三十一年参朝

                   祝 箸


         ※「生」「死」を「ひとつ生命」ととらえた一字



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