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無我




禅僧の雄道です、こんにちは。


ご法事の参列で赤ちゃんがお越しになることがあります。

今の時期、建物内でも寒さひどく、申し訳ない気持ちになるのですが、

同時にありがたいものです。


赤ん坊は、法事のたび毎にグングン成長していきます。


お葬儀中、ギャンギャン泣きじゃくってお母さんに廊下へ連れ出されていたのが、

一周忌では、終始キャッキャとはしゃぎ大騒ぎ。結局母、外へ連行。


三回忌では、始めは静かに座っていても、

法事終盤、ついに忍耐力尽き、本堂内を縦横無尽に走り回わる。


それが七回忌では、終始お利口に席に座わり通し、

十三回忌では、部活や塾が忙しくて、法事に来なくなります。


そのお宅のお子さん、お孫さんを拝見する度、時の流れを否応なく実感させられますね。



さて、そんな赤ん坊。

いつの間にか言葉を覚え、「私」というものを学びます。



「私」がいて、

「私」以外の「他者」がいる。



「私」の身体

「私」の家族

「私」のお金

「私」の人生

「私」の命


成人後、これらを必死に自らの手で守っていきます。


だけれど『「私」の』という割には、

身体も、家族も、お金も、人生も、命も

「私」の思う通りにはなりません。


所有も、コントロールもできない。


どうやれば、所有できるのか?

なんとかコントロールできないものか?


我々はあがきます。


あがいてもあがいても、

結局思い通りにいかないし、

あがくことは苦しい。

結果が伴わないと余計辛い。


仏教では、

そもそも「私」なんて無いよ。といってその前提を否定します。


「無我(むが)」とかいうそうです。


けど、物心ついて四十年以上もの間、

「私」が当然あると思い込んできたんですよ!

今更「私」はなかったなんてそんなまさか!

じゃあ一体、今この「私」は何なんだ?


頭で考えてもよくわかりません。


なので禅宗では、

考えることを投げ出して、坐ります。


坐禅といいます。


坐禅は「万事を休息する」といって、

「あがくのを投げ出し、サボること」だと思っております。


決して、あがく人生が悪いわけではない。


けど、あがき続けるのは疲れるし、

あがかないとどうなるのかを知らないと、

あがき甲斐もない様に思います。


まぁ、そんな生き方もある、という程度にお考え下さい。




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